長年、キャリア官僚として農林水産省に勤め50歳で医学部受験を決意された水野隆史先生が、どうして青森県の十和田市立中央病院で勤務することになったのか。その驚くべき挑戦と軌跡についてお聞きました。
前編では入職に至るまでの苦難と挑戦のエピソード、後編では研修や訪問診療を中心とした勤務のリアルをお届けします。
50歳を前にして、農林水産省の出先機関である石川県金沢市の北陸農政局に企画調整次長(局長の秘書のような役)として赴任し、毎日、山のような書類と格闘しながら多忙な日々を送っていました。
普段は忙しくて新聞を読む暇さえなかったのですが、その日、たまたま新聞を手に取ってなんとなく読み始めると、「62歳の研修医」という文字が目に入ったんです。50歳前に医師を目指した女性医師の記事でした。
それまで専業主婦として4人のお子さんを育て、娘さんが医学部に入学し、医学部の様子などを聞いているうちに医師になることを決意され、途中でご病気になるなど、苦労の末に55歳で医学部に合格。62歳で医師免許を取得されたという内容でした。
「こんなストーリーがあるんだ!」と大きく感動すると共に、公務員試験とは異なり医師免許の取得には年齢制限が一切ないことに驚きました。
新聞記事を見たのが49歳の時。「高齢でも医師を目指すことができる」ことを知ったことで、残りの人生の生き方を真剣に考えました。
公務員ですから、誰しもが自分の思い通りの仕事はできませんし、組織の一員として先が見えてしまうんです。頑張って仕事をしても、それが実際に日本の農林水産業の役に立っているのかどうか、直接手応えを感じることもあまりありません。農家の方々からクレームはあっても直接お礼を言われることは滅多にないですからね(笑)。
医師になれば人の命を救うことができ、患者さんに直接感謝されるなど、自分が人に役立っている実感もあり、やりがいも大きいはず。そう思い、医師を目指すことを決意しました。
あの日、新聞記事を読んでいなかったら医師になろうなんて絶対に考えることはなかったですね。偶然目にした新聞記事が私の人生を大きく変えることになったんです。
仕事のかたわら、50歳で猛勉強の日々が始まりました。不安だったのはやはり「年齢」です。
医学部は卒業するまで6年かかりますが、大学時代(東京大学農学部)、卒業後に工学部へ学士編入で入学した同期がいたことを思い出し、「もしかしたら医学部にも学士編入があり、4年間で卒業できるかもしれない」と思い、インターネットで調べました。
すると、多くの医学部で学士編入制度(医学以外の学問分野を専攻し、明確な目的意識を有する学士を医学部3年次等に編入させる制度)を実施していることが分かり、当時4年間で卒業できる学士編入を目指しました。
学士編入試験は英語と生命科学の2科目の試験ですが、筆記試験が通っても、私の場合、その後の面接試験において「年齢」が大きなハンデとなりました。全国の大学医学部の編入試験を受けてきましたが、面接試験は21連敗しています。
面接では、「あなたは何歳まで医者ができると思いますか」と聞かれることが多かったですね。そんなときは「100歳までやります」と答えていました。その気持ちは今でも変わっていません。面接官からの最も厳しい言葉だったのは、「あなたを合格させると若い医者の芽を摘んでしまうことになるんです」と言われたことです。年齢について面接で言及されることは覚悟していましたが、直接的に言われるとショックは大きかったですね。帰りのバスや飛行機のなかで「年をとることがそんなに悪いことなのか」と悔し涙を流したこともありました。でも、それが「絶対にあきらめないぞ」と決意することにもなりました。
編入学まで苦難の5年間を要しましたが、なんとか55歳で入学することができました。
金沢大学医学部の編入試験はそれまで2回受けており、筆記試験は通ってもやはり面接試験のハードルが高く、筆記試験の成績がよほど良くなければ受からないだろうと感じていました。
3回目の受験では筆記試験にかなりの自信があり、面接では気合を入れて眼鏡をかけて臨みました。受験票の写真は眼鏡をかけていなかったため、面接官に、「今なぜ眼鏡をされているのですか?」と聞かれ、「ここ一番のときは眼鏡をかけるようにしているんです」と答えると場が和み、そこからリラックスして面接に臨むことができました。
面接試験ではこれまでにはなかった大きな手ごたえを感じたのですが、期待はしていても何度も面接で落とされていた経験から、「今回もやっぱりだめなんだろうな」と思っていました。ですから、合格発表で自分の受験番号を見た瞬間は、嬉しさよりも驚きの方が勝っていましたね。
医学部の学士編入の定員は5名の大学が多く、少ない定員に対して志願者は非常に多いため、最初の筆記試験でかなりの数まで絞られます。ちなみに弘前大学医学部の学士編入は定員20名と他大学よりも定員は多いのですが、私が受験したときは600名ほどの受験者がおり、ホテルの予約が取れないほどでした。
受験に年齢制限がないとはいえ、やはり年齢を重ねている人は「医師になってから貢献できる年数が短い」ことなどがハンデとなり、面接試験のハードルが非常に高くなります。
筆記試験でよほど優れた成績を取らなければ面接試験をクリアするのはなかなか難しいでしょう。やはり勉強することが重要ですし、試験内容は大学によって異なるため、過去問がどういうものだったのか情報を集めることも大切です。そうした情報を得るために医学部受験専門の予備校に通っている人も多くいました。
医学部の学士編入は非常に狭き門ですから、とにかく手を尽くして頑張るしかありません。そのために、「絶対に受かるんだ!」という強い気持ちを持ち続けることも大切です。
入学式に出席した際、入口で「ご家族はこちらです」と止められるといったハプニングがあり、説明するのが大変だった思い出があります(笑)。
入学後は、30数歳年下の同級生と机を並べて講義、実習に明け暮れ( 3年次編入生は、2年次の解剖、組織学などの実習参加は必須で、さらに2年次及び3年次の全科目の試験に合格しなければ4年次になれない)、年齢による体力・記憶力の低下を自覚しながら苦難の4年間を経て、なんとか59歳で卒業することができました。
編入学同期たちとの絆は非常に強かったですね。やはり勉強がものすごく大変でしたので、みんなで助け合ってなんとか卒業できたという感じです。学士編入試験を受けた5年間より、医学生生活の方がもっと厳しく、大変でした。一回目の大学生活と同じような感じを想像していましたが、全く違いましたね(笑)。
私のこれまでを支え続け、大きな原動力になったのは、父や官僚時代の上司からの言葉です。
父は私が東京大学の1年生の時、56歳で急逝しましたが、私の大学浪人時代に仕送りが入った現金封筒の中に父からの手紙があり、最後に必ず【人事を尽くして天命を待つ】と書かれていました。編入試験では何度も不合格になりましたが、この言葉を噛みしめながら諦めることなく勉強を続けました。
そして、官僚時代に厳しい上司から言われ続けた、【簡単に諦めるな。1秒あればいつでも諦められる】、【険しい道と平坦な道があったら、険しい道を選べ。平坦な道ばかりを選ぶな】という言葉。さらに、何かの本で読んで覚えていた【あなたの『これから』が、あなたの『これまで』を決める】という言葉も大きな原動力となりました。
農林水産省に入省した3年目に、岩手県水沢市(現・奥州市)の出先機関に赴任した際、住民のみなさんがとても優しく、良い所だなと思いました。
そのことを地元の人に話すと、「岩手県は伊達藩と南部藩に分かれており、ここ(水沢)は伊達藩ですが、南部藩(岩手県の北部・中部と青森県の東半分)の方がもっと“人が優しい”ですよ」と言うんです。「ここよりも“人が優しい”素晴らしい場所があるんだ」と、そのときに知った南部藩の“人の優しさ”が強く頭に残っていました。
前職時代には全国各地、いろんな場所に出張しましたが、偶然にも青森県には滞在したことがなかったので、医師として働くなら南部藩だった青森県の八戸やむつ、十和田辺りがいいなと漠然と思っていました。
大学5年生の時に、病院見学のために金沢から車で約12時間をかけて十和田に来ました。「日本の道100選」に選ばれる官庁街通りをはじめ、“ものすごく綺麗で整った街”というのが第一印象でした。
病院見学では、事務の人も、面談していただいた事業管理者も院長も、見学に対応していただいた医師のみなさんも非常に親切であり、かつ丁寧で分かりやすい説明をしていただき、想像以上の“人の優しさ”に大きく感動しました。卒業後はこの病院にお世話になりたいと強く思い、6年次にも見学に行き、マッチングすることもできました。
しかし、医師国家試験に落ちるという大失態を演じてしてしまうんです。恐る恐る病院に連絡をしたのですが、想像に反して「いつでも待っていますから、もう一年頑張ってください」という温かい言葉と励ましをいただいたんです。このとき、十和田市立中央病院に骨を埋めてもいいと強く思いました。
そして、1年間の国試浪人生活を経て、60歳で医師免許を取得し、十和田市立中央病院にマッチングできたことで入職することが叶いました。
このような経緯があったことに加え、採用後は指導医や上級医のみなさんに丁寧なご指導をいただき、この病院が自分自身の医師としての“終の棲家”のように思われ現在に至っています。
今回は、前編・後編に分けて、公開いたします。
必然に導かれて十和田市立中央病院へ入職された水野先生。
後編記事「現在の働き方や青森県での研修・勤務の魅力」は12月中旬頃公開予定